有名な建築家ル・コルビュジエが愛したロクブリュヌ・カップ・マルタン

モナコ公国、マントンの間にある美しい紺碧の海が眺められる村、ロクブリュヌ・カップ・マルタン。有名な建築家ル・コルビュジエが愛した村として知られています。イタリア領、モナコ領、最後はフランス領となったユニークな歴史のある穴場をご紹介します! 【目次】 1.ロクブリュヌ・カップマルタンの歴史 2.ロクブリュヌ・カップマルタンの観光案内 3.アクセス 4.リンク 1.ロクブリュヌ・カップマルタンの歴史 ロクブリュヌ・カップマルタンには、ヨーロッパでも最も古い人が住んでいた痕跡のヴァロネット洞窟(Vallonet)が発見されています。その後も人が住んでいて、100万年前に悪天候から身を守るためにホモエレクトスが住んでいたのだとか。 その後、ローマ人もやってきます。中世には、イタリアのヴェンティミリア伯のコンラッド1世がロクブリュンヌの城を建てます。その頃、村はサラセン人の攻撃から村を守るために要塞を作ります。1157年に「ロカブルナ(Rocabruna)」という名前が初めて使われます。 その後、町はモナコの手に渡り、1860年にはフランス領になりました。 19世紀には、カップマルタンには、ベルエポックの偉大な有名人がやってきます。 1920年代には、偉大な芸術家と建築家がロクブリュヌで生活するようになります。有名な建築家のル・コルビュジエは海辺に小さな別荘「休暇小屋」を建て、アイルランド人の建築家のアイリーングレイは別荘E1027建てます。他にもロダンやウィンストン・チャーチル、たくさんの影響のある有名人が訪れ、この地に魅了されています。 2.ロクブリュヌ・カップマルタンの観光案内 中世の村、ロクブリュヌ・カップマルタンは、10世紀に建てられた城など、中世の街並みが残っています。ロクブリュヌの旧市街は、まるで絵本の中に入ったような中世の村です。イメージを膨らましながら、小さな路地を散策するのはとても楽しいです。ここも観光客が少なく、ゆっくりと散歩ができます。お土産やさんはなく、あるのはカフェとエピスリー、レストランだけで、地元の人々の生活が垣間見られます。お城がお好きなお客様がよく好んで訪問されています。 ル・コルビュジエのお墓が村の上にあって、プロヴァンスで最も古いオリーブの木の一つの千年のオリーブの木があります。 ル・コルビュジエの海辺の小さな別荘「休暇小屋」は事前予約をしてツアーで見学ができます。 城の上からは、村の家と地中海が一望できて、気持ちがいいです。 城の入場料は 5 €(2020年現在) ☆マイコートダジュールでは、ロクブリュヌ・カップマルタンへプライベート貸切チャーターでご案内しています。 アクセスが難しい村でもワンボックスカーで効率よくご案内します。 3.ロクブリュヌ・カップマルタンへのアクセス 電車の駅「ロクブリュヌ・カップマルタン(Roquebrune Cap Martin)」から徒歩で坂や階段を上がって30分。 4.リンク ロクブリュヌ・カップマルタンの観光局

フランスの最も美しい村の一つムスティエ・サント・マリー

ムスティア・サント・マリーは、”フランスのグランドキャニオン”と言われている壮大なウェルドン峡谷とエメラルド色の美しいサント・クロワ湖の近くにあって、フランスの最も美しい村の一つです。 ⭐︎地理・人口 1981年に「フランスの最も美しい村のひとつ」として認められたムスティエ・サントマリーは、南フランスのアルプ・ド・オート・プロヴァンス県に山の中腹に位置します。 アクセスはしにくい場所なのですが、夏は観光客で賑わっています。 現在、ムスティエの人口は700人程度です。 経済の中心は、観光と伝統的な「ムスティエ焼き」の陶器です。 ⭐︎歴史 ムスティエの村の近くに人が住んでいた痕跡は、3万年前のクロマニヨンの時代にまでさかのぼります。 青銅器時代に、リグリア部族は周囲の高原を占有し、oppidasと呼ばれる要塞を築き定住します。 現在の村に人が住み始めたのは5世紀からです。カンヌの近くにあるレランス諸島の修道士たちが 凝炭岩の洞窟に住み始め、6世紀には修道院を設立します。ムスティエ=サント=マリーという名前は、この教会があったことに由来しています(中世には、修道院はモナステリオMonasterio と言われていました。 470年に既に建てられていた聖母マリア聖堂があった場所にノートルダム・ド・ボーヴォワール礼拝堂が建てられます。 10〜11世紀にはムーア人の侵略があったので、近隣住民は身を守るために洞窟に隠れます。12〜13世紀には要塞や家が建てられ、ADOUの渓流には水車が造られます。 14世紀では、1348年のペストに加えて、 プロヴァンス伯爵領の後継争いで村の人口は減ります。 16世紀には、水力を使ったなめし革業、製紙業などが盛んになって村は勢いを取り戻します。しかし、17世紀の初めにはひどい悪天候のためにインフラや村の機能が弱まり、村の人口は再び激減ってしまいます。 17世紀の終わり〜19世紀には、ムスティエ陶器技術が発展します。 ムスティエ陶器の歴史 中世から、ムスティエの陶器技術は発展してきます。当初は、緑と茶色の自然な色合いの釉をかけた陶器が作られてました。1668年にレランス修道院からイタリアの修道士がムスティエにきた時に、白い釉(スズを含む陶器)の作り方の秘訣を伝えます。 ルイ14世は王国の財政を救済するために、金や銀の食器を溶かすように命じたため、代わりにムスティエの陶器が、ヨーロッパの宮廷界で最高の名声を得ることになります。 磁器とイギリス陶器が流行り始めると、2世紀に渡るムスティエの陶器活動に終止符が打たれます。 1927年、マルセル・プロヴァンス氏はムスティエ陶器の村のイメージを復活させるために、再び陶器を製作します。現在、11のムスティエ陶器のアトリエがあり、マルセル・プロヴァンス氏に捧げ博物館では、ムスティエの伝統的な陶器を見ることができます。 ⭐︎アクセス ニースからアクセスの仕方は2つあります。 一つ目は、ウェルドン峡谷(Les Gorges du Verdon)を通る道です。”フランスのグランドキャニオン”と言われている、ヨーロッパで一番大きくてよく知られています(ヨーロッパで標高が一番高い峡谷です)。 二つ目は、サント・クロワ湖からのアクセスです。こちらの方が道路は良いです。こちらの道でも到着する前にウェルドン峡谷の壮大な眺めが見られます(写真参照)。湖では約1時間のボートを借りることもできます。ボートは予約制ではないのと夏にはたくさんの人がいます。 ⭐︎観光案内 村の中は急な坂になっていて、もちろん歩行者専用です。村の途中には、川が流れ、夏でも涼しいです。小さな村ですので、すぐに回れます。村の一番上には、星が飾られていて(いくつかの言い伝えがあります)チャペル、ノートルダム・ド・ボーヴォワール礼拝堂もあります。 礼拝堂まで262段の階段を上がっていくこともできます。 村には多くの陶器家がいます。ムスティエの陶器ならではのモチーフが描かれています。村にあるアトリエで陶器家たちの手で作られています。 ⭐︎レストラン 約20のレストランがあり、洗練されたグルメ、ブラッセリー、地元の料理が食べられます。村の中には、小さなレストランがいくつかあります。 私が好きなのは、古い回廊にある « les tables du cloître(回廊のテーブル) »です。 »les santons »と « la treille »はよく知られているお店です。 ⭐︎ホテル 宿泊施設は、村の中心部と郊外には全部で130のホテル客室、約20のベッド&ブレイクファストがあります。 私がオススメするホテルは、デュカスのla bastideです。 少し穴場的なところです。 それほど高くなくて、とても美味しい食事が食べられます。採れたての野菜を使ってその日の料理が作られています。 とても静かです。 ⭐︎近郊の観光名所 ムスティエは、ラベンダー畑の広がるヴァロンソル高原(Valensole)の近くにあります。 ヴァロンソル村からマノスク方面にはラベンダー畑だけではなくヒマワリ畑もあって、壮大な景色が見られます。 ヴァロンソル高原のラベンダーは、初めはグラースの香料会社のための原料として栽培されます。当時は貧しい村だったので、女性や子どもだけでも重労働なく栽培ができるということで多くの家族がラベンダー栽培を始めたのです。 マイコートダジュールツアーズでは、ムスティエサントマリーとラベンダー畑の美しいヴァロンソル高原へご案内するツアーを時期限定で開催しています! ⭐︎リンク ムスティエ・サント・マリー観光局

世界のスターが集まるシックな街サントロペ

フランス人にとって、サントロペは、世界のスターが夏を過ごしたり、別荘を持っていたり、自分の船で来たりする高級リゾート地です。 リゾート地のイビサ島のようなものですが、もっとシックな場所です。まだほとんどアジア人観光客がいない穴場です。 サントロペが人気になった発端は、サントロペに別荘を持っていたブリジット・バルドーです。その頃から人気になり、世界のスターたちがサントロペを愛するようになり、「サントロップ(Saint Trop)」と呼ばれるようになりました。 ブリジット・バルドーは、今でもサントロペに住んでいます(今では老婦人です)。引退して動物たちと暮らしています。 私はフランスの有名な俳優ルイ・ド・フュネスが出ている映画「サントロペの憲兵」で、サントロペを知りました。多くにフランス人にとって忘れられない映画です。私はこの映画が大好きだったので、両親がサントロペの憲兵隊を見に連れて行ってくれました。 ⭐︎サントロペの歴史 サントロペの名前の由来は、帝政ローマの第5代皇帝ネロの元にいたローマ将校のトープ氏です。トープ氏はクリスチャンに改宗したことで皇帝ネロの怒りをかい、68年に首を切られます。遺体は、雄鶏と犬と一緒にピサから船に乗せられて流されます。船は、地中海のリグーリアの流れに乗って、サントロペの岸へたどり着くのです。そうして、守護聖人「聖トロペ:サントロペ」と呼ばれるようになります。赤と白のサントロペの旗の色は、旧ジェノバ共和国のものです。 サントロペは、古代にマルセイユに定住していたフェニキア人が最初に移住します。交易のための航海を容易にするために、地中海に沿って停泊港を作ります。おそらく現在のサントロペの街があるあたりに停泊港「アテノポリス」が作られます。ローマ人がガウルを侵略している間、この都市は「ヘラクラ」と呼ばれます。 ローマ帝国の崩壊後、プロヴァンスは様々な侵略にあい、住民は追い出されます。1000年の終わりには、サントロペには誰も住んでいませんでした。 972年、プロヴァンスのウィリアムは最後の侵略者を追い払い、今はサフレン塔と呼ばれている塔を造ります。 15世紀にルネ王は、侵略とペストで荒廃し人が少なくなったプロヴァンスを再建するために対策をねります。1441年、ルネ王は、ジャンドコッサ氏のためにギモー男爵の領地を作ります。この地域の弱点だったサントロペ湾だったので、この地をどうしても守らなければいけなかったのです。彼はイタリアの紳士、ラファエルドガレッジオ氏にこの任務をゆだね、21世帯のジェノバ人家族を連れてきて、都市を再建し要塞を作ります。 当時の要塞の一部が今でも残っていて見ることができます。都市の防衛と保護をする代わりに、ジェノバ人家族は税金を免除されます。 1558年に王は、都市の大尉の指揮下であれば、軍隊を作る権利を与えます。1637年にサントロペ軍はスペインのガレー船を21隻追い払います。1672年には、ルイ14世が砦の王室守備隊を作り、これらの軍隊はなくなります。(現在は海軍博物館がこの砦の中にあります) サントロペは伝統的な活動(漁業、造船所、貿易、農業)に加えて、16世紀からは最初は海賊から海岸を守るため、そして王国を守るために多くの船乗りや航海士を輩出します。 ピエール=アンドレ・デ・サフレン(Pierre-Andre de Suffren、1729-1788)は、王室の将校で、バイリと呼ばれ、ルイ16世のと艦隊の指揮官で、何世紀にもわたって最も有名な人物です。 1600年にはフランス国王アンリ4世の2番目の王妃で、ルイ13世の母であるマリー・ド・メディシスが立ち寄ります。 フランス革命の間の1793年、政治家のポール・バラスは、町の名前を「ヘラクラ:Heraclea」に戻すように説得します。 19世紀には、海軍に関連する活動が発展します。1860年にサントロペでは、 »天使の女王 »と呼ばれる、3本マストの740トンの大きな商船作られます。サントロペは成長し、繁栄していきます。 1866年には港にBailli de Suffren像が建てられます。 1913年、ナポレオン3世の大臣エミール・オリヴィエ(Emile Ollivier)氏は、自分の所有するMoutte城のすぐ前にある、Salins海を見下ろす岩に建てられた墓に埋葬されます。 その後、画家、知識人、芸術家がこの村を発見し、文学、音楽、映画の世界の有名な人々が訪れ、サントロペは世界で最も有名な村のひとつとなります。 ⭐︎サントロペの観光情報 今では、本当に特別な場所です。夏には大変混雑しているのに、冬にはあまり観光客がいません。 多くのホテルやお店は冬の間閉まっているところが多く(コートダジュールよりも)夏にのみ営業しています。 サントロペに行く大きな問題は、アクセス できる道が非常に少ないことです。半島になっているため、皆が同じ道を通ることになってしまうのです。ニースからは、100kmなので、オフシーズンには1時間ちょっとでつけますが、夏には3時間かかることもあります… 夏の渋滞をさける方法としては、船があります。 ニースまたはカンヌ発の船が出ていて、現場で数時間過ごした後、その日に帰れます。 その他には、St Tropezの向かいにあるSainte Maximeまでの船がでているのでそこまで船で行くだけでも大渋滞を逃れることができます。 サントロペは、とても小さな漁村で、海が美しいです。多くの豪華ヨットが停泊していたり、白い砂浜が半島の周りにあります。 サントロペの村の中に、週に数回市場があります。エルメスやディオールのような多くの高級ブティックや素敵なデザイナーショップがたくさんあります。 Rondiniの靴店はよく知られています。サントロペで手作りされたサンダル « Tropezienne »で特によく知られています。 サントロペで、トレンディなファッションは、ビーチボヘミアン、シックなヒッピースタイルです。皆が日焼けしていて、サンダルをはいています。 レストランは特に景色がいい場所だと非常に高いです。多くは「観光客向け」ですが、いいお店を見つけることができます。 港では、私は « Sénéquier »が大好きです。非常に高いですが、雰囲気はモナコのカフェ・ド・パリのようです。 テラスからは、人々や、美しい車、かわいい女の子、が通り過ぎるのを眺められます。少しの間、ぼーっと眺めているのも気持ちがいいものです。クラブサンドイッチやカプレーゼサラダ(モッツァレラが特に美味しいです)がお勧めです。 他にサントロペで食べなければならないものは:トロペジエンヌ・タルトです!シュークリームみたいなタルトで、夏に食べても、軽くて美味しいです。例えば、Sénéquierパティスリーでは(レストランでは、とても大きい!)小さなサイズのタルトを見つけることができます。 村の涼しい通りをお散歩することをお勧めします。城砦の眺めは素晴らしいです。 サン トロペから少し離れたラマチュエル・ビーチは、白い砂でとても有名です。レストランとブティック「クラブ51」はとても有名で、快適なところなので、立ち寄られるといいでしょう。 サントロペのホテルは他のすべてと同じように高額で、ハイシーズンには、部屋を確保するのは非常に難しいです。 Hotel de laMessardièreは、村のすぐ横にある城は、サントロペの豪華さの象徴です。 ☆マイコートダジュールでは、サントロペへ一日観光サントロペでご案内しています。 アクセスが難しい町でもワンボックスカーで効率よくご案内します。

ジャン・コクトーがよく訪れた客船の寄港地ヴィルフランシュ・シュル・メールとその近郊

ジャン・コクトーがよく訪れたニースとエズの間にある大型豪華客船の寄港地ヴィルフランシュ・シュル・メールをご紹介します。 *こちらのページは、観光ガイドの代わりとすることが目的ではなく現地ガイドの経験から便利で役に立つ情報を提供できたらという思いから作りました。 *お勧め情報はステファニーの個人的な意見です。 コートダジュールを目指してくるクルーズが停泊することが多く、重要な海上都市となっています。地中海の地元料理や新鮮な魚を組み合わせた様々な料理を堪能することができます。 ☆地理・人口 ニースの6km東隣、モン・ボロンの丘を越えたところにあります。今日ヴィルフランシュ・シュル・メールには、年間で5800人の住民が住んでいます。経済は観光業がメインで、フランスのコートダジュールのクルーズ客船の寄港地の中で最も活発な港の一つです。有名な大型豪華客船としては、ディズニーマジック、セレブリティソルスティスエノックス (RCCL)などがあります。 ☆歴史 ヴィルフランシュ湾は、丘に囲まれ守られているため、ギリシャやローマ時代から船のための停泊地として使われます。 西ローマ帝国の崩壊(5世紀)で、ヨーロッパは不安定になり、異邦人からの侵略を受けます。住民たちは、丘の上の鷲ノ巣村へ逃げ込みます。住民たちの避難した場所に「モン・オリヴォ(ラテン語のMons Olivaで、オリーブに囲まれた山だったのでしょう)」という名前がつけられます。 1295年プロヴァンス伯でナポリ王のアンジュー家シャルル2世が、海辺に新しい町を作ることに決めます。鷲ノ巣村から海辺に移り住む住民に対しては、「免税や特権を与える<Villam Francam>の都市を作る」とう文章を作成します。ヴィルフランシュという名前の由来はここからきています。 継承戦争後、1388年からほぼ5世紀にもわたってヴィルフランシュはサヴォイア公国の支配下に入ります。 16世紀には、神聖ローマ皇帝カール5世とフランソワ1世の対立が長い間続きます。 サヴォイア公国の領地は、神聖ローマ皇帝カール5世の2つの領地の往来を妨げていました。カール5世は、甥にあたるサヴォイア公爵を財政的に支援し、ニースの海岸線の要塞化を促します。それに対し、フランソワ1世は、カール5世の2つの領地の往来を妨げるために、 ニース伯領はアンジュー家の継承地だと主張します。 1554年からサヴォイア公爵、エマニュエル・フィリベールのリーダーシップの下でヴィルフランシュの要塞化が進み、サヴォイア公国の兵器庫、軍港として使われていきます。 1860年国民投票の後、ヴィルフランシュとニース伯領はフランスの地となることを認め、サヴォイア公国の支配下から抜け出すことになります。 この豊かで激動の歴史の中でも、ヴィルフランシュ・シュル・メールには、多くの歴史的な建物などが残っています。 漁業は、ヴィルフランシュの歴史的な活動です。漁師の家族たちはお互いに支え合い、しっかりしたコミュニティを築きました。 1860年には、ヴィルフランシュ、ボーリュ、サンジャンカップフェラ、で270名の漁師の登録がされていましたが、今では数わずかとなっています。 ☆観光案内 旧市街は、中世の趣が残っていて、階段や坂道がたくさんあります。メイン通りのポワリュ通り(第1次大戦中の兵隊さん通り)にいくつかの小さな路地が交差しています。オブスキュール通り(暗闇通り)は、今でも洞窟のように薄暗く、何メートルも続いていて、中世の不安定な時期に住民の避難場所として使われてきたようです。 ヴィルフランシュは、ジャン・コクトーが頻繁に訪れた港町で、1957年には港にあるサン・ピエール礼拝堂の修復装飾をしたことで知られています。壁画には、キリストの使徒になる前は漁師だったサン・ピエール(ペテロ)の生涯を街の娘たちや漁師たち、魚たちなどヴィルフランシュの風景の中に描き、ヴィルフランスの漁業組合に贈ったそうです。 ジャン・コクトーは、サン・ピエール礼拝堂のすぐ向かいにあるwelcomeホテルに滞在していました。今でもジャン・コクトーが泊まっていた部屋に宿泊することもできます。 サン・ピエール礼拝堂 閉館日:毎週火曜日、11月中旬〜12月中旬 (2017年は12月21日まで閉館) 開館日時:4月−9月10時-12時/15時-19時、10月−3月10時-12時/14時-18時 入館料3ユーロ ☆イベント 2月のニースカーニバルの時期にヴィルフランシュの港で海軍花合戦が行われます。 2019年は2月18日(月)に開催予定です。 ⭐︎ホテル ヴィルフランシュには、4星ホテル、デザイナーズホテル、プールのある素晴らしい港の景色を望むホテルなど10軒のホテル、計220台のベッドがあります。また、3つの住宅型ホテル、30の家具付きアパート 、2つのシャンブルドットもあります。 サン・ピエール礼拝堂のすぐ向かいにあるwelcomeホテルにジャン・コクトーは滞在していました。今でもジャン・コクトーが泊まっていた部屋に宿泊することができます。 ☆レストラン 港沿いにあるLa Mere Germaineは新鮮な魚介類が美味しいレストランとして有名です。ブイヤベースが有名で、1人分60ユーロ程度です。 ☆アクセス ニースから電車でモナコ・イタリア方面へ1駅です。SNCF PACAのサイト バスでは、ニースから出ている81番でオクトロワ(Octroi)下車 バス会社Ligne d’azurのサイト ☆リンク ヴィルフランシュ・シュル・メール観光局(英語) ☆近郊の街 ⭐︎サン・ジャン・カップ・フェラ(Saint Jean Cap Ferrat) サンジャンカップフェラ半島は、19世紀終わりからリゾート地として有名になります。 その前は、ヴィルフランシュ・シュル・メールの一部で、乾燥した岩のある土地だったため、聖ジョン・ハムレット教会と港の周りに漁師や農家のいくつかの小さな家があるだけでした。 1876年に水道局が貯水池を作り、半島にも水が供給されるようになったため、多様な植物が育つ環境となります。その頃から、ニースの家族たちが車で来て、オリーブの木の下でピクニックをしたり、港の近くのレストランで食事をしたりするようになります。 独立 1388年以来、サヴォイア家が所有していたニース伯領は、1860年フランスの一部となります。1904年に、ヴィルフランシュ・シュル・メールから分離し、サン・ジャンは独立した自治体となります。まずは、サンジャン・シュル・メールと名づけられ、1907年にサンジャン・カップ・フェラという名前となります。 観光業の発展 1900年代初頭、冬の観光が、コートダジュールで展開していきます。その穏やかな気候にイギリス人やロシア人など裕福な外国人の家族が魅了され、人気の目的地になります。サンジャンカップフェラにはベルギー国王レオポルド2世や貴族がやってきます。 1904年、ベッドフォードホテル(現在のホテルロイヤルリビエラ)が半島の入り口に建てられます。1908年、裕福な国際的な観光客のためにグランドホテルが、緑豊かな半島の岬に建てられます。 1950年代には、夏の観光が流行り始めます。エディット・ピアフ、チャーリー・チャップリン、エリザベス・テイラー、リチャード・バートン、ジャン・ポール・ベルモンド、ロジャー・ムーア、トニー・カーティス、デヴィッド・ニーヴンやロミー・シュナイダーなどの芸能人やドゴール、ジスカールデスタン、レイモン・バール、ウィンストン・チャーチル、ジョージ・ブッシュ、ビルクリントンなどの政治家もやってきます。アンリ・マチスやジャン・コクトーなど有名な芸術家もサンジャンカップフェラに滞在します。 ドイツ出身のユダヤ人の芸術家シャルロッテ・サロモンは、ホテルベルオロール(現在のホテルヴィラカップフェラ)に2年間滞在し代表作「人生?あるいは劇場?」を作製します。もっとも有名な画家は、ジャン・コクトーです。彼は素晴らしいフレスコの壁画をサント・ソスピール荘に、市役所の結婚式場に壁を飾るフレスコ画を作製します(事前予約で見学可能)。 ベルギー国王レオポルド2世は、1889年からカップフェラの土地を取得し始め、数年後に半島の西側に50ヘクタールにわたる土地を得ます。 現在は、半島にたくさんある豪華な邸宅ですが、最初は、隣町のボーリューシュールメール(現在のプロムナードモーリス・ルヴィエ)へ続く海岸沿いに建てられました。一番最初に建てられた「Lo Scoglietto」(現在「フルール・デュ・カップ」)の所有者は、チャーリー・チャップリンやデヴィッド・ニーヴンでした。他にも有名人たちが所有する邸宅が数多くあります。 ⭐︎観光案内 徒歩ではアクセスが難しい場所ですが、ジャンコクトーが描いた素晴らしいフレスコの壁画がサント・ソスピール荘にあります。 2018年から2020年まで工事中で見学はできないようですが、以前訪問できたときは、いつもとりこになっていました。 サンジャンカップフェラ半島の先にあるグラン・ホテル(Grand Hotel du Cap Ferrat)にある、海に面した景色が素晴らしいカフェ(クラブドルフィン)では、ゆっくりとお茶ができ私のお気に入りです。 お時間がおありの方は、砂浜の素敵なla plage de passableでのんびりされるのもお勧めです。岬を一周する散歩道(11キロ)の一部をゆっくりお散歩されるのも気持ちいいです。お子さんでも歩ける道があります。 数多くあるお金持ちの邸宅の中でも、最も豪華な邸宅「ロスチルド邸」が半島の中にあります。「夢の別荘」と言われていて、予約なしで見学ができます。7ヘクタールの大きな敷地なので、邸宅と庭を見学するには1時間ぐらいかかります。中にはカフェもあってお茶をしたり、軽食が食べられます。5月には船のデッキに見立てたという庭園にバラが咲いて素敵です。 06230 Saint-Jean-Cap-Ferrat Tél : 04 93 01 33 09 365日オープン:10時〜18時 7月・8月:10時〜19時 11月から1月:月曜日〜金曜日14時〜18時 / 土日祭日10時〜18時 開場は閉館時間の30分前まで ティールーム:2月〜10月:11時〜17時30分、11月〜2月:土日祭日 アクセス:電車:Beaulieu-sur-Mer駅下車徒歩25分もしくは、駅前のバス停からバス81番 »Plage de Passable »下車 ⭐︎リンク サン・ジャン・カップ・フェラ観光局(英語) ⭐︎ボーリュー・シュル・メール サン・ジャン・カップ・フェラの半島の付け根をモナコ方面へ少し行ったあたりにあるのが、ベルエポック時代の建物が残っている温暖な高級保養地ボーリュー・シュル・メールです。 高級ブティック、カジノ、高級ホテル、高級レストランが集まり、蟻の湾(Baie des Fourmis)の前にある小さな絵のような港には豪華な船が停泊しています。ゆっくりと海辺を散歩したり、カフェのテラスでゆったり過ごすのがおすすめです。 Sancta Maria de Olivo礼拝堂には展示物があって、見学されてもよいでしょう。 夏の間は、小さなアフリカ(la Petite Afrique)と蟻の湾(Baie des Fourmis)という静かで素敵なビーチでゆっくり海水浴も贅沢ですね。 イベントとしては、7月に行われる「夜のギター(Les Nuits Guitares)」と9月に行われる「 ボーリュークラシックフェスティバル」があります。テニスも盛んで、4月にジュニア国際トーナメントが行われています。 観光名所としては、ギリシャの邸宅を再現したヴィラ・ケリロス(Villa Kérylos)が村の真ん中にあります。 ヴィラ・ケリロスには、地中海の住居に似せて、白いカララ大理石でできた12本の柱に囲まれた大きな広場が中心にあります。古代ギリシア宮殿の装飾の細部まで再現されています。洗練された家具が最も特徴的です。オリーブの木々とブドウ畑、ザクロ、キャロブ、キョウチクトウやアイリス、松やヒノキなど、フランスのリビエラの太陽の下で、ギリシャの雰囲気を再現しています。 開館時間: 1月〜4月、11月〜12月:午前10時〜17時、 5月と10月:10時〜18時、 6月〜9月:10時〜19時 閉館日 1月1日、5月1日、11月1日、11月11日、12月25日。 ガイドツアーは無料(フランス語のみ):毎日11時、14時30分、16時、冬11時または15時。 オーディオガイド:フランス語、英語、イタリア語、スペイン語、ドイツ語、ロシア語、ギリシャ語 Villa Kérylos 住所:Impasse Gustave Eiffel 06310 Beaulieu-sur-Mer 電話 : 04 93 01 01 44 ⭐︎リンク ボーリュー・シュル・メール観光局(英語)

マチスのロザリオ礼拝堂があるヴァンス

マチスのロザリオ礼拝堂がある町として有名なヴァンス。長い歴史がある中世の町の魅力をご紹介します。 *こちらのページは、観光ガイドの代わりとすることが目的ではなく現地ガイドの経験から便利で役に立つ情報を提供できたらという思いから作りました。 *お勧め情報はステファニーの個人的な意見です。 ☆地理・人口 ニースから22㎞程度、サン・ポールから更に山の方に入っていくと岩が剥き出しになっているサン・ジャネ山が見え、そのふもとにヴァンスの町があります。人口は、現在は2万人弱ですが、ニースから車で40分かからないため、ニースで働く人々のベットタウンとして人口が増え、発展してきています。 ☆歴史 ヴァンスの歴史はとても古く、石器時代の住居跡やリグリア人のものと言われている城砦カステララ(Castellaras)の跡などが周辺には数多く発見されています。ヴァンスの都市が作られたのはおよそ紀元前3000年で、 アルプスに遊牧しながら住んでいたネルジイ族(Nérusiens)が現在のヴァンスのあたりに住み始めます。 ネルジイ族は、当時のプロバンス全体に住みついていたケルト人とリグリア人の血が混じったケルト-リグジア人ということができます。ネルジイ族は、危険が迫ると簡単な要塞の裏に避難します。当時は、戦いの神Venciusなど数々の神を信仰していたと言われています。その神の名前がヴァンスVenceという町の名前の由来になったという説があります。他には、ケルト語以前の言葉でヴァン(Vin)という「高さ」を意味する言葉が起源だという説もあります。 ローマの支配下に入ってから、ヴァンスの町の周りに城壁が作られ、水道が引かれ、ディーニュへ抜けるローマ街道の大切な中継地点である要所「ヴァンティウム」(Vintium)とヴァンスはなります。 中世にはヴァンスの町は、14世紀以上に渡って「司教の町」として発展していきます。城壁の内側は小道とたくさんの家でひしめき、1333年まで城壁の近くに家を建てることは禁止されます。15世紀まで町の中にはスペースは全くありませんでした。16世紀になると、ヴァンスにとって大切な人物が司教になります。プロテスタント側と対話をするために、トリエント公会議を行ったことで知られているローマ教皇パウルス三世も実はヴァンスで司教を勤めています。当時のヴァンスの住民たちは、オリーブや花農家、羊飼いたちでした。 1880年から生活様式がかわります。全ての農村に水道が引かれます。鉄道が走り、移動がしやすくなり、公立学校が無料で全ての人々に開かれます。一軒家がヴァンスの周辺にどんどんと建てられ、農民の数が減っていきます。 20世紀になるとヴァンスは世界に知られる観光地となります。太陽に恵まれ温暖な気候や景色だけでなく、アートや文化でも有名となります。マチスやシャガール、デュビュッフェなど数多くの有名な画家が移り住みます。ニースのシャガール美術館にある17枚の連作「聖書のメッセージ」は、ヴァンス滞在中にシャガールが約13年間をかけて作られたものといわれています。マチィスは、第二次世界大戦の激しくなった頃に、爆撃を避けてニースから離れ、静かなヴァンスにやってきます。別荘「ル・レーブ (Le Réve)」を借りて、5年間過ごし、ピカソもここを訪れています。この別荘は、2000年からヴァンス市のものとなり、芸術家、画家などの集まる場所となっています。マチスは、 「今朝、家の前を散歩していた時に、若い女の子や女の人、男の人が朝市に行くために自転車に乗っているのを見て、タヒチにいるのかと思った。」と言っていたとか。当時の様子が目に浮かんできますね。 ☆観光案内 ヴァンスは、中世の町として指定され、珍しく城壁がきちんと残っていて、楕円形をしています。 町の中は、路地がかたつむりの殻のように渦巻き状になって、中央の広場までたどり着きます。この広場には、ガイドブックにもでている大聖堂(Cathédrale de la Nativité de la Vierge)があります。カロリン王朝時代の寺院跡に建築されたもので、修復と拡大が幾度も加えられています。この大聖堂の中には、重要な歴史的遺産(11世紀)が残されていて、入り口から入ると一番奥の左側にある洗礼所には、シャガールのモザイク(Moîse sauvé des eaux)が飾ってあります。教会の中は暗いのと分かりにくい場所にあるので、少し見つけにくいです。 5つの城塞門の一つ、ペイラ門(Porte de Peyra)の内側には、歴史的建造物に指定されているペイラの噴水(1822年)があります。その近くに17世紀のヴィルヌーヴ城 (Château de Villeneuve)には、 エミール・ユーグ財団の近代アートの美術館が入っています。 © 庄司雅則 (SHOJI Masanori) ロザリオ礼拝堂(Chapelle du Rosaire)は、「マチスの礼拝堂」として日本でも有名ですね。 ヴァンスのバスターミナルから坂道を上がって徒歩約10分で行くことができます。建物、ステンド・グラス、 壁のタイルに描かれた絵、祭壇など全ての装飾をマチスが構想し手がけた礼拝堂です。 2016年に入り口やブティック、二階にあるスペースが改修されて綺麗になりました!日本語のガイドブックもおいてあります。ガイドブックには出ていないこともあるようですが、改修後に入館料が上がっています。 Chapelle Du Rosaire 466, av H.Matisse Tél : +33(0)4 93 58 03 26 入場料金: 7€ 2017年夏から開館日も変更になりました! 開館日:火・木・金 : 10時-11時30分、14時-17時,水・土 : 14時-17時 閉館日:月・祭日、日曜日は訪問不可、日曜日10時からミサがあります。毎年11月中旬から12月中旬も閉館します。 年間で一番光が美しいのは、冬の午前11時頃と言われています。 外観はとてもシンプルで小さいのですが、屋根に大きな鉄の十字架があり、カラフルなステンド・グラスが目を引きます。 中に入ると大理石の床や白タイルの壁に映った黄・緑・青のステンド・グラスの光が印象的です。 黄色は太陽・神の光を象徴し、緑色は自然・植物を表し、そして青色は地中海と空を表しています。 マチスが重い病に臥していた頃に彼の看護婦であったジャック・マリー(後に修道女となった)の「礼拝堂を作りたい」という願いを聞いて、1947年から礼拝堂の製作を始め、4年かかって1951年に作り上げました。 マチス本人も自分の代表作品と考えていたという、マチスの集大成の作品といえます。 ☆レストラン ロザリオ礼拝堂から400メートル、徒歩6分ぐらいにミシュラン一つ星レストランLes Bacchanalesがあります。火・水は定休日ですがそれ以外はランチもディナーも食べられます。ご予約をお忘れなく。 ☆マイコートダジュールでは、 ルノワールの家、ロザリオ礼拝堂(もしくはヴァンス村)、サン・ポールへご案内する半日ツアー(午後)を催行してます。 ☆アクセス ニース発、サン・ポール経由の400番のバスと ニース発ヴァンスまで直接に行く94番のバスで終点 ☆リンク ヴァンス観光局

冗談みたいに小さな自称「独立」公国セボルガ

フランスの国境近くにある自称独立公国「セボルガ」について紹介します。 *こちらのページは、観光ガイドの代わりとすることが目的ではなく現地ドライバーガイドの経験から便利で役に立つ情報を提供できたらという思いから作りました。 *お勧め情報はステファニーの個人的な意見です。 セボルガは、フランスの国境近くのイタリア共和国リグーリア州内にあります。 歴史的にイタリアに併合されてこなかったということで、イタリアからの独立を宣言し「セボルガ公国」を自称しています。王子、大使、大臣がいて、独自の通貨と切手もあります。しかし、実質的には「独立国」ではなく、市長や市議会は、イタリア共和国の政府のもので、住民は税金をイタリアに収めています。 日丸屋秀和氏の漫画『Axis powers ヘタリア』には様々な国々が登場しますが、「セボルガ公国」もセボくんとして登場しています! ⭐︎地理・人口 セボルガ公国の人口は300人程度で、フランスの国境近くのイタリアの町ボルディゲーラの上の丘の上標高517メートルに位置し、広さは14平方キロメートル、 モナコ公国(1.95平方キロメートル)の7倍となります。セボルガの砦が首都です。 ⭐︎歴史 (セボルガが公表している歴史等の内容のまとめです) 紀元前5世紀頃に海賊がきた痕跡がありますが、紀元前2000年頃には人々が住んでいたと言われています。 紀元前250年頃には、ローマの支配下に入り「burga」という名前の植民地となります。住民たちは、ローマやローマ人に対して反感を持ち続けますが、ローマ市民となります。その後、リグリア地方は648年ロンバルド王によって征服されるまで東ゴート人やビザンティン人の侵略を受けます。8世紀の初め、侵略が増えてきたため、セボルガを含めたローマの「burga」は要塞を造ります。 770年にはフランク王国に併合され、カロリング王朝カール大帝の支配下に入ります。789年、カール大帝はセボルガを含む地域にヴァンチミリア伯を配置します。 セボルガ:レランス・サントノラ修道院の領地 954年4月、プロバンス伯ギヨームと共同でヴァンティミリア伯が侵入者からセボルガを解放しようとしている時、ヴァンチミリア伯は、セボルガの領地(14平方キロメートル)を当時プロバンス領であったレランス・サントノラ修道院に譲渡します。 1079年には、神聖ローマ帝国グレゴリウス7世の許可の元、レランス・サントノラ修道院長は、セボルガの公爵と名乗ります。実際には、公爵が選んだ村長が主導権を握り村をおさめています。 凶作が続き、セボルガの財政状況が悪くなってきたため、セボルガ公爵は、1666年12月24日に打開策として独自の通貨(Luigini)を鋳造するために、造幣局をセボルガに設立することにします。1668年フランス王から正式に抗議を受け、造幣局を閉めます。財政状況が良くならないため、サントノラ修道士たちは、セボルガの売却を考えるようになります。 修道士セボルガを売る 1697年1月31日、レランス大修道院のMeyronnet公爵は、サルデーニャ王でサヴォイア王子のヴィットーリオ・アメデーオ2世へセボルガ領を売却するために契約書を作ります。しかしジェノバ共和国は、自国内に他国の領地が存在することになるのを避けようと交渉を長引かせようとします。フランス王ルイ14世、ヴァンチミリア司教、教皇にまで働きかけます。1723年に売却の交渉が再開され、1729年1月20日サルデーニャ王でサヴォイア王子のヴィットーリオ・アメデーオ2世の弁護士とレランス第修道院の財務担当者が、パリで売却契約にサインします。この公文書上では、セボルガの領地はサヴォイア公国の財政からではなく、王の個人的な資金で買い取ったという記録が残っています。30年かかりましたが、セボルガはサヴォイア家の保護領になります。 セボルガの人々は、その後の1861年イタリア統一、1946年イタリア共和国成立は一方的で不法な措置だったと主張しています。 現在 1963年にGiorgio Carbone氏が、「王子」として選ばれ、セボルガの住民たちは、セボルガ公国はイタリアから独立していると主張します。1995年には新しい憲法を制定し、Luiginiというお金を発行しますが翌年中止されます。Giorgio Carbone王子は2009年に亡くなり、公開選挙でMarcello Menegatto氏が2010年からMarcello1世となります。7年ごとに再選挙がありますが、選挙の1年前の2016年2月にフランス人のNicolas Mutte氏が、自分こそセボルガ公国の王子、Nicolas王子だと宣言しメディアで話題になります。もちろんMarcello1世は、否定しています。 ⭐︎観光・お土産 春には黄色いミモザ、白いエニシダが周辺の野原に咲き、とても美しいです。オリーブの木々に囲まれた村からは、海岸の壮大な景色を眺めることができます。 村の入り口には、セボルガの守護聖人の聖ベルナールの小さな礼拝室があります。中心の広場には、最近復元されたフレスクがある聖マルタン教会があって、左側には以前修道士たちが住んでいた官邸、旧造幣局があります。村の周りには、以前の城壁の遺跡が残っていて、刑務所として使われていた場所も見学が可能です。村の中世の趣のある小道では、ゆっくり散歩ができます。 オリーブオイル製造農家も訪問できるところがあるそうです。 セボルガ公国のお金や切手も独自のものなので、お土産になりますし、観光客の外国人の私たちもセボルガ公国のパスポートを作ってもらうことができます!他には、セボルガのTシャツやマグカップ、ワイン、農家で作られたオリーブオイルなどもお土産やさんで買うことができます。 (写真:セボルガ公国のパスポート)   (写真:セボルガ公国の切手) (写真:セボルガ公国のお金) ⭐︎マイコートダジュールツアーでは、個人ではアクセスのしにくにセボルガ公国、イタリアのドルチェアクア、モナコ公国、フランスのマントンの4カ国を効率良く1日で訪問できる1日で4国巡りツアーを2017年4月から催行します。 ⭐︎アクセス フランスとイタリアの国境の街Ventimigliaから電車で10分弱のBordighera駅下車、そこから1日に4本の10番のバスに乗って30分でSeborgaに着きます。 ⭐︎リンク セボルガ公国公式サイト

秋冬のコートダジュールの魅力

夏が終わり、秋と冬になるとコートダジュールの太陽や海、自然の色は変わってきます。こちらでは、秋と冬のコートダジュールの魅力についてご紹介したいと思います。 秋冬のコートダジュールの魅力 ☆冬も暖かいコートダジュール ☆歴史的にも冬の保養地として栄えたコートダジュール ☆秋・冬のコートダジュールのメリット ☆オリーブオイル作りの見学 ☆秋・冬のコートダジュールのデメリット ☆冬も暖かいコートダジュール コートダジュール Côte d’Azur、紺碧海岸というのは、1888年に出された地中海沿岸の旅行について書かれた作家ステファン・リエジャール(Stéphen Liégeard)の本『ラ・コート・ダジュール』がきっかけだったと言われています。フランスのカンヌやニース等、ヴァール県、アルプ=マリティーム県、モナコへ沿って伸びるヨーロッパ海岸線一帯をさしていて、イタリア人やイギリス人は、フレンチ・リヴィエラとも呼んでいます。 緯度からいえば、ニースは北海道に位置しますが、地中海性の温暖な気候のため、コートダジュールは、冬でも暖かいです。年間を通して雨が降ることは比較的少なく、フランスで最も太陽に恵まれた(日照時間が長い)地域です。 Niceの気候 – 海抜4m地点 月 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 年間 平均的最低気温 (°C) 5.3 5.9 7.9 10.2 14.1 17.5 20.3 20.5 17.3 13.7 9.2 6.3 12.4 平均気温 (°C) 9.2 9.7 11.6 13.6 17.4 20.9 23.8 24.1 21 17.4 12.9 10.1 16 平均的最高気温 (°C) 13.1 13.4 15.2 17 20.7 24.3 27.3 27.7 24.6 21 16.6 13.8 19.6 日照時間 (時間) 158 171 217 224 267 306 348 316 242 187 149 139 2 724 降水量 (mm) 69 44.7 38.7 69.3 44.6 34.3 12.1 17.8 73.1 132.8 103.9 92.7 733 参照 : Données climatiques officielles à Nice (moyennes mensuelles sur la période 1981-2010) 春は、平均的な最低気温は8度〜14度、最高気温は15度〜20度と暖かくなり、観光シーズンが始まる時期です。3月の最後の日曜日から10月の最後の日曜日まではサマータイムで、特に夏は日がとても長く6月21日には22時まで太陽が出ています。6月の平均的な最低気温は17.5度、最高気温は24度程度で、7、8月の平均的な最低気温は20度、最高気温は28度程度ですが、夏は湿度が低いため日陰では日中でも過ごしやすいです。 8月の終わりから秋にかけて雷雨があります。9月は暑すぎずとても快適です。10月から11月は、雨がよく降り日が短くなる時期です。この時期に水を貯めておくことになります。10月はまだ日中に20度まで上がることもあるので海に入っている人も多いです。 冬は、12月の平均的な最低気温は6度、最高気温は14度程度なのでホワイト・クリスマスにはならないです。1月が一番寒くて平均的な最低気温は5度、最高気温は13度程度です。日中は太陽が出てくるので気温が上がります。沿岸地域では霜が降りることは滅多にありませんし、雪が降ることはまれですが、アルプス山脈は近くにあって(車で2時間、スキー場も近くにあります)、毎年山には雪が降ります。2月は平均的な最低気温は6度、最高気温は13度程度です。ニースのお店ではロングコートは売っていませんし、手袋や毛糸の帽子も滅多に使うことはありません。時々ブーツを履くことはありますが、温暖なので数日間だけです。 ☆歴史的にも冬の保養地として栄えたコートダジュール 温暖な気候のコートダジュールは、18世紀からヨーロッパ各国の王侯貴族の冬の保養地として栄え始め、イギリス人やロシア人が冬を過ごしに来ています。20世紀の終わりから、ヴィクトリア女王などヨーロッパの王族、貴族がニースを訪れるようになります。この頃に現在のネグレスコホテルが建てられています。1925年からは冬シーズンだけでなく夏にも観光客が訪れるようになります。終戦後は、富豪、著名人、芸術家たちがコートダジュールを訪れるようになります。ルノワールやマチスは、病気の療養のためにコートダジュールで冬を過ごすようになります。当時コートダジュールで冬を過ごすと長生きできると言われていました。他にもシャガール、ピカソなど20世紀を代表する芸術家たちが、訪れ、定住し、創作していたため、現在も美術館という形でコートダジュールに残っています。 ☆秋・冬のコートダジュールのメリット 秋・冬は、夏・春よりも雨が降りやすく気温は低めではありますが、フランスで一番太陽に恵まれた地域ですので、保養地として、あえて秋・冬にくる人たちもたくさんいます。夏よりも観光客が少なくなるので、美術館巡りや街や村の散策がゆっくりできます。エズ村やサンポールなどは夏は人が多くてビューポイントでは写真を撮るのに待ったりしないといけませんが、冬は空いていてほとんど貸切状態で好きなだけ写真が撮られます。 また、秋冬は、夏に比べて航空券やホテルの金額がお得ですし、予約も取りやすいです。エールフランスやルフトハンザでも東京から秋冬のクリスマスシーズン・カーニバルシーズンを外せば往復で1人10万円以下の航空券もあります。夏は、1人15万円は超えてしまいます。 ホテルは、例えばBooking.comのサイトでは、ネグレスコホテル はクリスマスシーズン・カーニバルシーズンを外せば秋冬は夏の半額の料金で泊まれます。他のホテルも秋冬は、夏よりもかなり割安な料金で宿泊ができ、同じ予算でも秋冬の方がより良いホテルでゆったりと過ごすことができます。 お店やホテルのスタッフたちも秋冬は比較的余裕があるので、夏よりも親切に対応してもらえるというメリットもあります。 秋は紅葉もきれいで、キノコ、トリュフ、栗、ジビエなどの旬の食べ物が食べられます。冬は、12月はクリスマスマーケットなど楽しいイベントが目白押しで、1月半ばから2月頭までのだいたいどこのお店でもセールをしているので、秋・冬物のお買い物にとてもお勧めです!2月半ばからはニース・カーニバルとマントンのレモン祭りが開催され観光客で賑わいます。コートダジュールのイベントカレンダーをみる フロリアン(Florian)というお菓子工場で、コートダジュールの名物の柑橘類の果物の砂糖漬けのフルーツ(フリュイ・コンフィ)を作っている所を冬の間は見学できます(無料)。2月-8月はスミレ、ローズ、ジャスミンなどの花びらの砂糖漬け(コンフィ)を作っています。また、年間を通してチョコレートやキャラメル、飴等を作っているところも見学可できます。 CONFISERIE FLORIAN DU VIEUX NICE 住所 14, quai Papacino, 06300 Nice 電話 +33 (0)4 93 55 43 50 月曜-日曜 ニースカーニバル中 : 8:30-12:30 / 14:00-18:30 – 7月、8月 : 9:00-12:30 / 14:00-19:00 -12月 : 9:00-19:00 -その他 : 9:00-12:00 / 14:00-18:30 閉館日12月25日、1月1日の午前中 ☆ニース近郊のオリーブオイルを作るムーラン見学 オリーブの収穫時期の11月から3月までは、地元産のオリーブオイルを作っているところが見学できます。 ・Alziari(ニース)住所318 Bd de la Madeleine Nice 月曜-金曜9:00-12:30(入場は 11:45まで) /14:00-18:00(入場は17:00まで) アクセス:ニース市内から3番のバスの終点 La Madeleine下車徒歩10分弱 ニースのお土産にもお勧めしているアルジアリのオリーブオイルを作っているムーランの見学ができます。 ・Huilerie Sainte-Anne (グラース) 住所138 Route de Draguignan 06130 GRASSE 月曜-土曜9:30-12:30 / 14:00-18:00 オリーブを伝統的な木の歯車装置によって動く石のひき臼でつぶして作っている所を見学できます。 アクセス:グラース旧市街地から1時間半から2時間に1本出ている30番のバスに乗り「Pont de Sainte Anne」下車(15分程度)徒歩 ・Moulin […]

フェルナン・レジェとガラス作りで有名な鷲ノ巣村ビオット

ビオットは、気泡が入っている吹きガラス作りやフェルナン・レジェが晩年を過ごしたことでよく知られている鷲ノ巣村です。 *こちらのページは、観光ガイドの代わりとすることが目的ではなく現地ガイドの経験から便利で役に立つ情報を提供できたらという思いから作りました。 *お勧め情報はステファニーの個人的な意見です。 ☆地理・人口 ビオットは、カンヌとニースの間、海から4km、ニース空港から15分の丘の上にあります。人口は、約9千人でどんどん増えてきてきます。 ☆ビオットの歴史 ビオットの周辺には先史時代から人々が住んでいた痕跡が残されています。ケルト・リグリア部族がビオット周辺を長い間占領し、ローマの後ろ盾のあるギリシャ文明のアンティポリス(アンティーブ)と争います。リグリア部族は、154年にローマに破れ、現在の旧市街に少しずつ街が築かれます。ローマは5世紀に渡りこの地を占領し、今日でも観ることができる歴史的建造物が造られます。 中世 ローマ支配終焉後から中世開始までの期間は、あまり知られていません。1209年には、ビオットの領土権を所有していたプロヴァンス伯爵は、「自分と両親の魂の救済」のために、ビオット領土権をテンプル騎士団に寄付します。当時の村はアーケード広場や教会といくつかの家で構成されています。テンプル騎士団は、ビオット村の周辺の土地を購入したり、寄付により取得し、領土を統一します。 テンプルの騎士団がいなくなった後、ビオットの領土は、エルサレム・聖ヨハネ救護騎士修道会(1530年にはマルタ騎士団となります)、とグラースの司教に委託されています。この状況は、フランス革命まで継続されます。 16世紀〜19世紀のビオット、陶器造りの発展 村はさらに大きくなり、16世紀と17世紀の間は栽培と陶器によって村人は豊かになります。 1707年と1746年には、外部から2回侵略を受け、村は部分的に破壊され、作物に大損害を受けます。 16世紀から、ジャール(Jarre)と呼ばれる大瓶造りが盛んになり、ビオットは陶器生産の重要な中心地と変化していきます。しかし、19世紀には、陶器造りや、石材の採掘や切り出し業は減っていきます。 20世紀から現在 20世紀初めには陶器業は衰退します。ビオットでは、農業、特にブドウ栽培と園芸が盛んになりますが、1960年頃には後退し、新しい活動が始まります。  ソフィアアンティポリスのビジネスパーク、ヨーロッパの最先端の技術集積都市の大部分が、ビオットの郊外に1970年に設立されます。 INRA(国立農業研究所)、INRIA(コンピュータサイエンスおよび自動の研究のための国立研究所)、CNRS(フランス国立科学研究センター)、ニース・ソフィアアンティポリス大学の研究センターがビオットに創られ、ハイテク企業と肩を並べます。同時に、芸術や工芸品が盛んになります。フェルナン・レジェ(Fernand Léger)やレイモン・ペイネ(Raymond Peynet)、他の芸術家がビオットに定住します。 1956年には、エロイ・モノー(Eloi Monod)はビオットのガラス製品と気泡が入っている吹きガラスを造ります。ビオットは、芸術の町となります。 ☆観光情報 旧市街では、いつくもの工芸工房が並ぶサン・セバスティアン通り(Rue Saint Sébastien)や教会に近い中世の雰囲気の残るアルカド広場(Place aux Arcades)あたりをゆっくり散策されるとよいでしょう。 ・国立フェルナン・レジェ美術館(Le musée National Fernand Léger) 1905年から1955年の間に創作されたフェルナン・レジェの作品が常時展示されている唯一の美術館です。フェルナン・レジェは晩年にビオットに移り住み、弟子のロラン・ブリス(Roland Brice)やクロード・ブリス(Claude Brice)と共に陶器の作品を造りました。 定休日:火曜日、12月25日、1月1日、5月1日 開館時間:5月から10月:10時-18時、11月から4月:10時-17時 入館料:常設展示5.50ユーロ、臨時展示会があると+2ユーロ程度となります。 アクセス:アンチーブから10番のバスで15分程度、SNCF国鉄のBiot駅からも10番のバスで3分程度「Fernand Léger」で降ります。 住所:Chemin du Val de Pôme ・陶芸歴史博物館(Le musée d’histoire et de céramique biotoises) 16世紀〜19世紀にはビオットは陶器造りで栄えていました。その頃を様子がうかがえる博物館です。 定休日:<6月16日-9月15日>月曜日、<9月16日-6月15日>月曜日・火曜日 開館時間:<6月16日-9月15日>10時-18時、<9月16日-6月15日>14時-18時 入館料:4ユーロ(日曜日は2ユーロ)、16歳以下無料 住所:Rue Saint Sébastien(中心街にあります) ・ビオットガラス工場 (La Verrerie de Biot) ガラスのエコ美術館が中に入っていて、ビオットの吹きガラスの歴史や製造過程の秘密なども紹介しています。 定休日:1月15日-28日 開館時間:<夏>月-土9時30分-20時、日・祭日10時30分-13時30分、14時30分-19時30分 <冬>月-土9時30分-18時、日・祭日10時30分-13時30分、14時30分-18時30分 ガラスのエコ美術館入館料:3ユーロ、7-14歳:1.5ユーロ 住所:Chemin des Combes(中心街から800メートル、徒歩10分程度) ・盆栽博物館(Le Bonsai Arboretum) 世界の盆栽をあつめたOKONEKファミリーのコレクションが見られます。 定休日:火曜日 開館時間: 10時-12時、14時-18時 入館料:4ユーロ 住所:Chemin du Val de Pôme ☆レストラン 村のふもとに1つ星レストランのLes Terrailliersがあります。建物は、16世紀の陶芸工房を改装したもので、歴史を感じながらおいしい料理が食べられます。 Les Terrailliers 住所11 Chemin Neuf, 06410 Biot 定休日:水曜日・木曜日、11月 村の中にあるクレープ屋さんCrêperie-Auberge du vieux villageでは、手軽に美味しいプロバンスクレープが食べられます。  Crêperie du Vieux Village 住所:29 Rue St Sebastien, 06410 Biot ☆お土産 ガラス製品や工芸品などが村の中心に走っているサン・セバスティアン通り(Rue Saint Sébastien)に並んでいます。 6 Rue Saint Sébastienには、ビオット在住の日本人スタッフがいるインテリア・雑貨屋さんSud Lointainがあります。おしゃれなインテリアや雑貨商品、お土産にもなる現地の写真ギァラリーもあります。日本語で話せますし、美味しいレストランや楽しいところなどを紹介してくれます。是非、立ち寄ってみて下さい。 ☆アクセス アンチーブから10番のバスで25分程度、電車のBiot駅からも10番のバスで10分程度Biot Villageで降ります。 Envibus10番時刻表 ☆マイコートダジュールツアーズでは、小さな村々巡りツアーでアクセスが難しいビオットへ効率よくご案内します。 ☆リンク ビオット観光局

ピカソが晩年を過ごしたガストロノミーの村ムージャン

Mougins

ムージャンはガストロノミー(美食の)村としてよく知られていて、アーティストや有名人、VIPの方々が集まってきています。パブロ·ピカソは1973年に亡くなるまでの晩年の12年間をこのムージャンで過ごしています。 *こちらのページは、観光ガイドの代わりとすることが目的ではなく現地ガイドの経験から便利で役に立つ情報を提供できたらという思いから作りました。 *お勧め情報はステファニーの個人的な意見です。 ☆地理・人口 カンヌから内陸へ10キロ程度の丘の上にあるムージャン村は、昔からの姿がそのままに残っています。標高269mにあってカンヌ湾とレランス諸島を見下ろすことができ、反対側の内陸側からは、香水の首都グラースとプレ・アルプス山脈が臨めます。 人口は、2万人弱で、村以外にも25キロ平米の土地があって、半分が緑です。 ☆歴史 紀元前1世紀頃は、ムージャンの丘は、リグリア部族の小さな首都でした。ローマ時代には、アウレリア街道上の馬車宿として、重要な場所となります。中世、プロヴァンス王ルネの支配が終わると、自由権を得て、レランス大修道院長とグラース司教が領主となりムージャンの町は裕福になり、要塞化されます。18世紀から、オリーブ畑、ブドウ畑、ジャスミン畑での仕事を通じて町は繁栄します。その頃チャドで有名になった探検家司令官ラミー(1858から1900)氏はムージャン出身です。 ピカビアからピカソ 19世紀後半からは、気候とその立地の良さから、ムージャンに多くのフランス人と外国人が集まってきます。1924年にはアバンギャルド超現実主義者の画家フランシス·ピカビアはムージャンに魅了され、家を建てることを決めます。そして、友人達にムージャンの良さを話し、どんどん有名人が集まってくることになります。 最も有名なのは、1936年に初めて村に来たパブロ·ピカソです。その頃一緒にムージャンへ来た人たちは、ジャン·コクトー、ポール·エリュアール、マン·レイ、フランソワミレーなどです。そして、数年後ピカソはムージャンに住む事を決めます。彼は、ノートルダム・ド・ヴィ礼拝堂の隣にあってカンヌ湾を見下ろすことができる理想的な場所に住居を決めます。そして、彼の人生の最後まで妻ジャクリーンとその家に住み、仕事を続けています。 有名人達 その後、画家のフェルナン・レジェ、詩人のロベール·デスノス、映画監督のルネ·クレール、ダンサーのイサドラ·ダンカンはムージャン村に滞在しています。クリスチャン・ディオールは、最も有名なコレクションを作った時にはムージャン村の中心部に住んでいます。その後には、有名な歌手のジャック・ブレル、エディット・ピアフ、バレエダンサーのローラン・プティとジジ・ジャンメール、イヴ・サンローラン、シンガーソングライターのポールアンカ、詩人のジャン・リシュパン、映画俳優・監督のロベール·オッセン、女優のカトリーヌ·ドヌーブやジャンヌ·モロー、デザイナーのロジェ・ヴィヴィエなどが住んでいます。今日では、海の近くにある田舎であるムージャンに魅せられ、無数のアーティストがムージャンに住居を持っています。 ☆観光情報 ムージャンの村は、丘の頂上にある鷲の巣村です。カンヌ湾とレランス諸島を見下ろすことができ、反対側の内陸側からは、香水の首都グラースとプレ・アルプス山脈が臨めます。村の一番高い中心からカタツムリのように螺旋状に狭い通りが広がっていて、30以上のギャラリーやアートスタジオがあり、のんびりと散策ができます。村は小さいのですぐに周りきれ、主に2つのメインの狭い通りがあってレストランとギャラリーがならんでいます。 村の中のPorte Serrazineの近くにある写真美術館では、ピカソの写真や臨時展示もされていてお勧めです。 ムージャンのクラシックアート美術館(MACM:LE MUSEE D’ART CLASSIQUE DE MOUGINS) 古代ギリシャ、ローマ、エジプトの芸術の最大のプライベートコレクションやピカソ、レンブラント、ダミアン·ハースト、ダリ、マティス、アンディ·ウォーホルなどの近現代の作品が展示されていて、プティ・ルーヴル(小さなルーブル美術館)と呼ばれています。 32 rue Commandeur 村に入ってすぐ左にAmandierというレストランのすぐ隣です。 入場料12ユーロ12月25日以外毎日開館(10時-18時) ノートルダム·ド·ヴィ礼拝堂 村から少し離れた所にありますが、旧ピカソの邸宅の隣にあって現在も訪問が可能です。訪問無料 10月-4月:10-16時 7月と8月:毎日(午前10時-12時30分/午後14時-19時) 5月、6月、9月:毎週末(同上)。 ☆レストラン 村の中には約30軒の伝統的なグルメレストランがあります。そのうちいくつかのレストランでは、グルメ料理教室が開催されています。 2018年にミシュランの2つ星をもらったPALOMAは村の入口にあります。 以前3つ星レストランだった有名な「ムーランドムジャン」は、村からカンヌ寄りのノートルダム·ド·ヴィ礼拝堂の近くにあります。 ムーランドムジャンの3つ星シェフのロジェ・ヴェルジェが村の中に作ったもう1つのレストラン、ラマンディエも有名です。 5つ星ホテルの中にある1つ星レストランル・カンディーユは、村から徒歩10分です。もちろん車でも行けます。 ☆イベント 1969年にロジェ・ヴェルジェがレストラン「ムーラン・ド・ムージャン」へやってきてシェフとなり1974年にはミシュラン3つ星までもらい、ガストロノミーがムージャンにとって非常に重要な位置をしめることになります。 年に1回、美食の国際フェスティバルが開催されます。3日間、ムージャンの村にはフランスと世界中の有名な100人程のシェフが集まり、数十のデモンストレーション、ワークショップ、ショークッキングなどが開かれ、オープンエアの劇場となります。 ☆マイコートダジュールツアーズでは、小さな村々巡りツアーでアクセスが難しいムージャン村へ効率よくご案内します。 また貸切チャーターでノートルダム・ド・ヴィ礼拝堂やムーラン・ド・ムジャンなど個人ではアクセスがしにくい場所にもご案内できます。 ☆アクセス カンヌ駅からバス600番か30番でVal de Mouginsまで行き、そこからカンヌ方向に少し戻り花屋がある交差点を左に少し坂を上がった所にあるバス停から25番か27番、Val de Mouginsのバス停の向かい側の道に渡り更に少し進んだ所にあるバス停から23番、26番、650番に乗換えてMougins villageで降ります。もしくはカンヌ駅からバス630番でQui Vend Bonまで行き、向かい側のバス停から26番に乗ってMougins villageで降ります。1つ目のバスでコレスポンダンス 〇〇(数字)を運転手に言うと乗り換え用のチケットをくれるので、それがあれば2台目はお金はかからず1.50ユーロで行くことができます。バスの本数がいずれも少ないので事前に時刻表をチェックして行かれる事をお勧めします。 ☆リンク ムージャン観光局のサイト

中世の可愛らしい小さな村ヴァルボンヌ

Valbonne

フランスのハイテクパークであるソフィア・アンティポリスの近くにあるヴァルボンヌの村は、自然に囲まれ穏やかで温かい雰囲気です。特にローマ時代の街作りの計画に基づいて作られた碁盤目に区切られた街が今でも中世の雰囲気を残していて、とても素敵です。 (写真:Ville de Valbonne Sophia Antipolis)  *こちらのページは、観光ガイドの代わりとすることが目的ではなく現地ガイドの経験から便利で役に立つ情報を提供できたらという思いから作りました。 *お勧め情報はステファニーの個人的な意見です。 ☆地理・人口 ニースから西に30キロ、カンヌから13キロ内陸に入った山の中に位置し、自然に囲まれた村です。人口は1万1千人です(2003年)。 ☆ 歴史 先史時代と古代ギリシャ・ローマ文明 ヴァルボンヌの周りにある丘で行われた発掘により、コートダジュールの田舎のこの地域に古代から人間が暮らしていた形跡が見つかっています。数々のローマの瓦やアンフォラという古代ギリシャやローマ時代の取って付き壷やオイルや種を保存しておくためのかめなども見つかり、紀元1世紀頃から農業が行われていたことがわかっています。ソフィア・アンティポリスの近くにある水路橋の遺跡は、ローマ時代にアンチーブまで水を運んでいたものです。 修道院とシャレ大修道院の影響 ヴァルボンヌの歴史は、長い間修道院の歴史と密接な関わりがあります。ヴァルボンヌ(Valbonne)という名前(« Vallis Bona » 良い谷)は、13世紀に修道院設立とともに、アンチーブのオリビエ司教からプラド神父に贈られた土地として初めて記されます。 シャレ修道会に属する修道士の数は最も栄えていた時には1200ほどになり、ヴァルボンヌを含め修道院の数は13にもなります。シャレ修道会の力が14世紀には衰え、大修道院はアヴィニョンの聖アンドレのクリュニー修道院と統合した後、グラースの司教から1346年にレランス大修道院へ贈られ、修道院として使われていきます。 1387-89年のレイモン・ド・チュレンヌ(チュレンヌ副伯、ボーフォート伯)によるクレメンス七世(アヴィニョンの教皇)に対する暴動による被害と、ペストの被害によって、大修道院の管轄する地域の村々の人口は過疎化します。 ヴァルボンヌ村 グラースの司教で、レランス大修道院長であったグリマルディ家のオーギュスタン氏が1519年に率先して、近隣の共同体の助けを借り、1351年からのペストの被害を受けた村を再建します。1199年に導入されていたシャレ大修道院の横に村は造られます。 建築様式は、ローマ時代の長方形の街作りの計画に基づいて、中央通り、そこに直角に交わる道と中央にある広場が造れます。主に防御的な理由で、城壁の家には、外部への扉がありませんでした。 この村の領主は、10 分の1税を取り、小麦を挽いたりパンを焼く権利、ブドウやオリーブをつぶす権利を持ち、長い間住民達は献呈を続けていきます。 今日皆さんがご覧になられる村はほとんど当時のまま維持されています。 16世紀から20世紀までの発展 20世紀の半ばまでヴァンルボンヌはオリーブやワイン用のブドウや、香水の原料となるバラやジャスミンを栽培し農業が中心の村でした。20世紀の初頭にセルヴァンというブドウの栽培が始まり、現在でもその名残りが1月最後の週末に行われる聖ブラシウス祭りの際に見られます。 第二次世界大戦中には、占領された地域からの難民がヴァルボンヌ村に到着します。平和が戻った後、1950年に発展が進みます。海岸沿いが人口過密となり、その周りの農業や林業の土地がある地域では農業が衰退したことにより、多くの一軒家が立ち並ぶようになります。この開発は、通信システムが改良されたことと公共施設が建設されたによって促進されます。商業や工芸品、観光やレジャー関連機関も同時に発展して行きます。 ☆ 観光情報 ヴァルボンヌの見所は、特にローマ時代の街作りの計画に基づいて作られた碁盤目に区切られた可愛らしい街(村)並みです。村の中にはアンティークやインテリアのお店があって、ゆったりと散歩ができます。坂道を降りた所にある教会も中世からあり雰囲気があります。 アイスクリーム屋 Le Glacier は地元でも人気です。Le Glacier, 26 Rue Eugene giraud, 06560 Valbonne  東京のデパートに卸しているショコラティエ クリスチャン・カンプリニ Christian Camprini がありますので、お土産にお勧めです。 Christian Camprini 11, rue de la République 06560 Valbonne Tél. 04 93 75 03 61 地元で人気でケーキ屋さんは Patisserie Lenoir 14, Blv Carnot, 06560 Valbonne とても有名なチーズ屋さんが村の中にあります。 味見もできてチーズによっては真空パックにしてくれます。 ☆ レストラン お勧めのレストランは、村の中心にある広場に面しアーチの横にあるTerre Rossaです。プロバンス料理が食べられお勧めです。 Cadran Solaire  (4 rue Eugène Giraud)は、金・土(夏以外の日)にはランチ時もオープンしていて、洗練されていて美味しい料理が食べられます。 2017年できたレストランLou Cigalon-Maison Martinのシェフは、モナコのアラン・デュカスの3つ星レストラン »Louis XV”で4年、一つ星レストランla Bastide de Moustiers Sainte-Marie »5年、他にも星付きレストランでの経歴があり、こ自身のお店を開かれたそうです。奥さんは日本人でソムリエさんですので、日本語で話ができるので、安心です。 https://www.loucigalon.fr/ ☆マイコートダジュールでは、ヴァルボンヌを含む小さな村巡りツアーを催行してます。 アクセスが難しい村々をまとめて一日でワンボックスカーで効率よくご案内します。 ☆ アクセス アンチーブのバスターミナルからEnvibus 10番のValbonne行きに乗り終点で降ります。50分から1時間程度かかります。時刻表はこちら カンヌからは、駅横のバス停から630番のバスで45分から1時間です。時刻表はこちら グラースからは530番のバスで40分程度、ムアンサルトーからは同じバスで15分から20分です。時刻表はこちら 写真:Ville de Valbonne Sophia Antipolis ☆リンク ヴァルボンヌ・ソフィアアンティポリス観光局のサイト

豪華ヨットとピカソ美術館で有名なアンチーブ

日本の方々にはピカソ美術館があることでよく知られているアンチーブですが、他にも色々な見所があって私のお気に入りの街の一つです。 タイトルをクリックするとその内容へジャンプできます。 ☆ 地理・人口 ☆ アンチーブの歴史 ☆ 観光情報 ☆ ホテル ☆ レストラン ☆ イベント ☆ アクセス ☆ リンク *こちらのページは、観光ガイドの代わりとすることが目的ではなく現地ガイドの経験から便利で役に立つ情報を提供できたらという思いから作りました。 *お勧め情報はステファニーの個人的な意見です。 ☆ 地理・人口 ニースとカンヌの間、ニースから南西に約23キロ、カンヌから東に約10キロに位置するアンチーブは、人口約7万5千人で、コートダジュールでニースの次に大きな街です。アンチーブ岬は、ニースのビーチからも右側に見ることができます。 ☆ アンチーブの歴史 アンティポリスからアンティーブへ アンティーブ・ジュアンレパンの歴史は、数千年に富んでいます。紀元前5世紀に、ギリシャ人はマルセイユを設立し、ニース(ニカイア)を創る前に、アンティポリスとよばれる交易地、現在のアンチーブにつくります。 アンチポリターナの町 ローマ時代になってアンティポリスはかなり成長します。ガリアの主要道路の一つのオレリア街道は、多くのモニュメント(劇場、劇場、アゴラ、浴場、水路、凱旋門)のある都市を結び経済発展を促し、ワイン、油や陶器を運ぶ船が多く通過する重要な市場となってゆきます。一方、町は、地域資源、特に漁業や塩田を開発していきます。町では、ローマと同じ食事が作れるように様々な調味料が作られます。 アンチポリスからアンチブール コンスタンティヌスの治世の後、ローマ帝国は、アンティーブ国を残して崩壊します。アンティポリスはアンチブール(Antiboul)と名付けられて、聖Hermentaireが442年に最初の司教となります。しかし、地域に不安が残り、特に海上貿易での経済は促進しません。 当時のイスラム教徒サラセン人たちが海岸から頻繁に侵入します。 1243年には、インノケンティウス4世は、市内はもはや安全ではないとして、グラースへ教会を移すことにします。 アンチーブ ロイヤル・シティー 1481年にフランス・プロヴァンスへ併合され、アンティーブはニース伯領とサヴォイア国という隣国に面した王国の最後の砦となります。そして、ヨーロッパの支配のためのチャールズ5世とフランソワ1世の間の戦争の渦中に置かれることとなります。すでに1524年に破壊されたアンティーブの町は、カール5世に賛同するアンドレア・ドリアの艦隊からの強力なサポートを受けた50,000人の強力かつ経験豊富な軍隊によって、1536年には陸と海ともに包囲され、略奪されます。16世紀の後半に、プロヴァンスは戦火と血にまみれます。宗教戦争により、スペイン王フェリペ2世が率いる新たな侵略を受けます。同盟国、サヴォイ公爵は、アンチーブを再び包囲し略奪します。アンリ4世は、エペルノン公爵を急いで送り1592年12月6日町を奪回します。アンリ4世によるブルターニュ平定とナントの勅令が公布され、戦闘は中断されます。 1600年、アンティーブはイタリアから来たマリー・ド・メディチ、新しいフランスの女王を受け入れます。 オーストリア継承戦争中の1746年の歴史上最悪の包囲を見る前に、ルイ14世は有名な軍事建築家ヴォーバンに市内の防衛の強化を託し、ヴォーバンは要塞を再構想します。サド伯ジョセフ·デビッド司令官の指揮の下、アンティーブは2,600個の爆弾と200の火炎瓶によるオーストリアの57日の攻撃に英雄的に抵抗します。2月1日に、包囲はついに終了します。 アンチーブとフランス帝国 フランス革命中は、アンチーブは比較的穏やかです。トゥーロンの包囲中に若い将軍ボナパルトが名を挙げる前に、彼の家族はアンティーブに住んでいます。 ナポレオン皇帝となり、ニース出身のマセナ氏やアンチーブ出身のオノレ・シャルル・レイユ氏などの国の重要な人物に指示される様になります。そのためにナポレオンはエルベ島から脱出した時にゴルフ・ジュアンに1815年3月1日に上陸し、アンチーブに停泊しようとします。しかし時間が経っていたため、アンチーブの人々はナポレオンに対して冷たい態度を示したたため、ナポレオンはアンチーブを避けていくこととなります。ルイ18世は、そんなアンチーブの皇帝への忠誠への報酬として前に自らが剥奪した「良い町」称号を再度与えます。 新しい時代 フランスとサヴォイア家の長い争いの後、ニース伯領は1860年にフランス領となります。 その後、要塞の中から外へと発展して行きます。陸側の城壁は取り除かれますが、Le Front de Mer という海側の城壁と16世紀に造られたLe Fort Carréカレ砦(歴史的建造物指定)は今でも見られます。 まずアンティーブ岬を開発し、園芸が発展して行きます。そして1882年にはジュアン·レ·パンの海水浴場を造り、コートダジュールの観光業の驚異的な発展とともに、世界の政治界・芸術界の有名人(ピカソ、マレーネ·ディートリッヒ、ケネディファミリーなど)が訪れるようになります。 アメリカのストーリー 実際には、ジュアン・レパンの冒険は、第一次世界大戦後に始まります。伝統的には、暑い夏の間、人は少なかったのですが、自由なアメリカ人のお陰で太陽が出ている時間でも海水浴をする人々が増えていきます。いくつかの隠れた別荘のある松林の中、米国鉄道王の相続人であるフランク·ジェイ·グールドは、海岸の最初の夏のおしゃれなリゾート地を造ります。 ドーヴィルの主唱者の1人のフランスのエドゥアール・ボドワンと共同で、彼は海辺の古いカジノを買い取り、海岸沿いで最も美しく活発なカジノへと変容させます。そして国際的な知的エリートや有名人(スコット・フィッツジェラルド、チャーリー・チャップリン、マレーネ・ディートリッヒ、ジョン・ドス・パソス、ピカソなど)が訪れるようになります。 映画にもなっている「グレート・ギャッツビー」の原作を書いたアメリカの有名な小説家フランシス・スコット・フィッツジェラルドは、アンティーブ岬とジュアンに滞在し、有名な小説「夜はやさし」や傑作「ジャズ・エイジの物語」を書きます。1927年5月には、フランク・ジェイ・グールドの息子フランク・ジェイ・グールドがコートダジュール最初の超高級ホテルを造ります。そして、カジノと共にジュアンへ人々を引きつけることとなります。その時から、ジュアンレパンはファッショナブルなリゾート地となり、時とともに欧州の最も有名なリゾート地となっていきます。 ☆ 観光情報 アンチーブは電車で来て、徒歩で旧市街等を廻ることができます。車があるとさらに範囲が広がって素敵な海を見にアンチーブ岬へ行くことができます。 アンチーブの旧市街の見所は、旧市街の奇麗なお店とピカソ美術館、プロヴァンス市場、ペイネ美術館です。 ピカソ美術館には、ピカソの作品自体はそれほど多くないのですが、ピカソが実際に絵を描いていたアトリエに入って雰囲気を味わうことができます。 入場料6ユーロ、月曜日以外の毎日 9月16日-6月14日 : 10時- 12時/14時-18時、6月15日-9月15日 : 10時 – 18時(17時30分までに入場)7月、8月の水・金曜日は20時までオープン(19時30分までに入場) 休館日:1月1日、5月1日、11月1日、12月25日 ペイネ美術館は、入場料3ユーロ、月曜日以外の毎日10時-12時/14時-18時に開いています。休館日:1月1日、5月1日、11月1日、12月25日 プロヴァンス市場は、ピカソ美術館の近くのMasséna広場にあって屋根付きです。月曜日以外の毎日6時-13時に開かれています。 モナコの3つ星レストラン「デユカス」のパンを作っているパン屋さん「boulangerie Véziano」も旧市街の中にあります(住所 2, rue de la Pompe Antibes)。また「Pierrot la lune」(住所:8 rue James close Antibes)というおもちゃ屋さんも素敵です。 カップ・アンチーブ(アンチーブ岬)もすばらしくて、車ですぐに行くことができます。アンチーブ岬を徒歩でお散歩するのはとても気持がいいです。もしくは、一日プライベートビーチでのんびり過ごすのもいいですね。 岬にあるLa garoupe灯台からの景色もとても奇麗です。地元も人たちは、砂浜のla Salisビーチが好みなようです。 ☆ ホテル カンヌ映画祭の時に、一流監督達が宿泊する(日本人では黒澤監督が宿泊しました)「エデンロック」という高級ホテルと素晴らしいレストランがあります。このホテルに宿泊するには、5泊以上の予約が必要とのことです。ホテル内のレストランでは宿泊していなくてもお食事ができますし、プールにも有料で入ることができます。 ☆ レストラン 私は、アンチーブ岬にある一つ星レストラン「les Pêcheurs」が好きです(住所:10 Boulevard Maréchal Juin06160 Cap d’Antibes)。レストランから海が見えて、お魚もとても美味しいです。 ニース側には、ブイヤベースが食べられる1つ星レストラン「Le Bacon」(住所Boulevard de Bacon Cap d’Antibes)もあります。レストランから見えるアンチーブと海の景色が素晴らしいです! ☆マイコートダジュールでは、アンチーブとカンヌへご案内する半日ツアー(午後)を催行してます。 アンチーブ岬などでごゆっくり過ごされたい場合は貸切チャーターでご案内も可能です。 ☆イベント アンチーブの隣「ジュアンレパン」では有名なジャズフェスティバルが毎年7月中旬に行われています。2013年には日本人アーチストも参加しました。 昼間はビーチ、夜はジャズで楽しい夏休みはいかがでしょうか。 ☆アクセス ・電車 ニースからは、カンヌ方面行きのTER電車で20分程度 カンヌからは、ニース方面行きのTER電車で10分程度 時刻表は、こちらのサイトの左側の枠に駅名 「Nice-Ville」 その下に「gare de ANTIBES」と入力し日時を選び、右下の青いボタンを押すと出てきます。 ・バス ニースからはメリディアンホテル前発のカンヌ行きの200番のバスで1時間30分程度 カンヌからは市庁舎前発のニース行きの200番のバスで30分程度 中心街に一番近いバス停は、「Directeur Chaudon」という名前でジェネラルドゴール広場付近モノプリのスーパーの近くです。比較的降りる人が多いバス停ですが、分かりにくいので事前に運転手に確認された方がよいでしょう。 バスの本数は、月−土:15分-20分ごと、18時以降は本数減、6時−21時45分運行。 日曜・祝祭日:20-30分ごと18時以降は本数減、7時45分−21時40分運行。時刻表はこちら 運賃は1.5ユーロ ニース空港から バス:ターミナル1か2のバス乗り場から250番EXPRESS 片道10ユーロ、往復15ユーロ 時刻表はこちら ☆リンク アンチーブ・ジュアンレパン観光案内所サイト英語